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今日は何読もう。何観よう。

旅と読書と美味しいものと。

【映画】-10 『聲の形』 人は変われるか

映画

※この記事は、映画の内容について若干のネタバレを含みます。ネタバレを好まない方は映画を見た後お読みください。

テンションの波が比較的緩やか(というよりスパンが非常に長い)んですが、1~2年ぶりにやる気が起きない期間に突入したようです。お休みをほぼ寝て過ごしてます。

とはいえ、見たい映画が多いので、仕事終わりに映画館には足を運ぶ…。

『聲の形』見てきました。

koenokatachi-movie.com

マンガが始まったとき話題になりましたね。マンガの方は読んだことなかったんですが…

 
“退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。
ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。

彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。
しかし、硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。
やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。
“ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪れる。
これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語――。

出典:HP

 

人と人とが分かり合うことのむずかしさ

個人的には、どれだけ仲の良い人であろうと家族であろうと自分のことを100%理解してくれることはないと考えています。これは言葉を尽くした場合であって、そうでなければさらに難しいのかもしれません。

子どもはとても正直なので、筆談や手話という普段使い慣れないコミュニケーション手段に疑問を呈する場面というのは容易に想像ができます。

高校生になった直花が硝子に対し、このような言葉を投げかける場面があります。

「小学生のとき…私はあなたについて全然理解が足りなかった」

「でもあなたも私のこと理解しなかった」

「その結果私はあなたに攻撃した」

「でもそれはメッセージだよ 『もうやめて』『私たちにもう関わらないで』っていう」

聴覚障害があるから」という理由で何かを強制されること(筆談や合唱会への参加)を嫌がり、排除するために悪口が始まったのです。

お互いに価値観の押し付け合いになっていたのです。

その後、将也がいじめる側からいじめられる側に転じ、その理由となった罪の意識からも周囲とのコミュニケーションを断ったこと、また、その過去を背負い新たな関係を築けずにいることはまさに相手を理解することの困難さの象徴であると思います。

本作は「いじめ」や「聴覚障害」を題材にしつつ、

「分かり合うことのむずかしさ」

をメインテーマに据えています。

決して、「いじめダメ」、「聴覚障害の人にも優しく」といった表層的なものでは終わらない作品です。

 

学校という名の異常な社会

主題とは異なりますが、本作を見て「学校」という閉鎖社会の異常さを改めて感じました。

1:いじめはなぜ起こるのか

まず、「いじめ」というと学校をイメージすると思います(最近は職場でもあるようですが)。これはなぜでしょうか?なぜ、学校で「いじめ」が起こるのでしょうか?

これは、学校が一定期間メンバーの変わらないコミュニティだからだと思います。

固定されたメンバーの中では、常に上下関係が発生してきます。

個々人は自尊心を満たすために自分より下位の者を生もうとするのです。

その時、「自分が上に行こうと努力するよりも、他者を下位に位置づけることの方が容易である」ということがいじめの発端だと言えます。

また、小学生~高校生にいじめが多い理由としては、やはり特定のクラスなど生活圏が一つのコミュニティに集中していることが関係しているのではないでしょうか?

ちなみにこれはクラスが変わればいいという意味ではありません。同じ学校、同じ学年という一つのコミュニティの中で下位に位置づけられた場合に、別のコミュニティを持たなければその状況から抜け出すのは非常に困難です。

 

2:いじめる側といじめられる側について

次に、将也がある日いじめられる側に変わったこと。個人的に似たような状況を見た経験があります(いじめがあったわけではないです)。

小学生時代のガキ大将が中学にあがる際、別の小学校のガキ大将グループとなじめず、見る影もなく静かになってしまい、いつの間にか転校していました。

この時は、コミュニティメンバーの入れ替わりという大きなイベントがありましたが、実際にはちょっとしたきっかけだと思います。特にいじめの場合、集団対個人のため、だれがいじめられる側に回ってもおかしくありません。いじめる側には、力も必要ありません。

それでもなぜいじめるのか?

それは、いじめる側にいなければ自分が対象になるかもしれないからです。

よく、「なんで止めなかったのか」と言いますが、佐原の顛末が物語っています。彼女は硝子との会話を促すための朝の手話練習に唯一手を挙げます。結果として、自分もいじめられ、不登校になってしまいます。

いじめられる側に手を差し伸べることは、自分もいじめられるリスクを負うのです。

いじめるという行為にそれほど大した理由がないので誰であっても矛先を向けられる可能性があります。結果として、いじめられている側を守るということは難しくなるのです。

まとめ―マンガ版との違いについて

映画を見終わった後、すぐにマンガも読んでみました。かなり内容が異なっている印象です。個人的に気になったポイントは

  • 高校生将也の性格が異なる(マンガ版:いじめを受けて自分から外部との接触を断つ、小学生時代の面影を残す 映画版:親友からいじめられた経験から内気な性格に周囲との接触を恐れる)
  • 周囲の人間の経験がより詳細に描かれる(真柴がなぜ将也と友達になりたかったなど)
  • 映画作りの有無(マンガ版:映画作りのために定期的に主要メンバーが集まる、文化祭で発表など 映画版:映画作りのエピソード自体がなし)
  • ラスト(マンガ版:20歳になり成人式で小学校の同窓会に向かう 映画版:高校の文化祭、心の壁が解けていく)

といったあたりです。

wikipediaによると、マンガ版も読み切りetcで複数種類あるとか、映画版~各マンガ版それぞれに感じ方が違うと思うので、すべて見てみたいですね。

 

 

 

 

 

小説 映画 聲の形(上) (KCデラックス ラノベ文庫)

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